フランス、2015年に自らが建設に協力した武漢研究所について米国に警告していた(2021/07/29)
2015年、フランス情報当局は米国務省に対し、中国が武漢ウイルス研究所で合意された共同研究を骨抜きにしていると警告していた。
武漢ウイルス研究所は、2004年にフランスと中国の共同プロジェクトとして生まれた。
仏テレビ局『フランス アンフォ』と『ル・フィガロ』によると、SARSが発生した2003年、中国はワクチンが存在しない危険なウイルスの研究に特化したセキュリティの高いレベル4の実験室を作ろうとしていた。中国とフランスは力を合わせて建設したいと考えていたが、フランスの国防関係者は当初、かなり難色を示していた。...
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武漢ウイルス研究所は、2004年にフランスと中国の共同プロジェクトとして生まれた。
仏テレビ局『フランス アンフォ』と『ル・フィガロ』によると、SARSが発生した2003年、中国はワクチンが存在しない危険なウイルスの研究に特化したセキュリティの高いレベル4の実験室を作ろうとしていた。中国とフランスは力を合わせて建設したいと考えていたが、フランスの国防関係者は当初、かなり難色を示していた。同盟国ではない抑圧的な国と機密技術を共有することを望まず、研究所が将来的に「生物兵器」に変貌することを恐れていた。すでに当時、フランスが資金提供して開発されたレベル3の研究所について、中国側が情報提供に消極的になっていたことも懸念材料となっていた。
しかし、フランスの政治家たちは賛同し、フランス政府は武漢研究所の建設に着手することを決定した。2011年に作業を開始し、2015年に完成した。中国とフランスの共同プロジェクトを支援するために、フランスは技術的な専門知識を中国に提供し、研究所の品質と安全性の継続的な向上を支援することを予定していた。また、年間100万ユーロ(約1億3000万円)の予算を5年間にわたって提供して約50人のフランス人科学者が中国の研究所の従業員の技術向上のための教育を支援することで合意していた。
しかし、武漢研究所は、研究者の仕事を監督することになっていたフランス人科学者たちの管理から、少しずつ離れていき、研究所で働くことになっていた50人のフランス人研究者たちは、一人を除き、誰も研究所を訪れていない。
元国務省職員で現在はシンクタンク「ハドソン研究所」の上級研究員であるデビッド・アッシャー氏は米『デイリー・コーラー』に対し、2015年、フランス情報当局が米国務省とフランス外務省に対し、中国が研究所で合意した協力関係を縮小していると警告していたと語った。アッシャー氏によると、2017年までにフランス人は研究所から「追い出され」、協力関係がなくなったため、2017年に再度フランス政府関係者が米国務省に、中国の動機について重大な懸念があると警告したという。
アッシャー氏は、「中国は基本的に、米国の技術、知識、物質的支援を得るために、米国をおとり作戦に誘い込んだ。彼らがあらゆる分野で行ってきた、古典的な方法だ」と指摘した。アメリカ合衆国国際開発庁(USAID)によると、2009年10月から2019年5月にかけて、国際開発庁は、武漢ウイルス学研究所との再委託契約のために、米国を拠点とするエコヘルス・アライアンス経由で110万ドル(約1200万円)を提供した。
「ニューヨーク・マガジン」は、エコヘルス・アライアンスが、国防総省の国防脅威削減局からも、武漢研究所の下請けとして資金提供を受けていたと報じている。そして、エコヘルス・アライアンスは米国国立衛生研究所(NIH)からの助成金のうち、2014年から2019年の間に委託先の武漢ウイルス学研究所に対して合計60万ドル(約6600万円)を渡していた。
アッシャー氏は、NIH、国防総省、USAIDは、フランスが2015年に国務省に警告したときにさかのぼって、武漢研究所に米連邦政府の資金を送るのをやめるべきだった、と述べている。
2018年1月、研究所を視察した国務省関係者は、研究所では、高度な訓練を受けた技術者が不足していると警告していた。また、米国務省は、トランプ政権末期の2021年1月、武漢の研究所が少なくとも2017年以降、中国軍に代わって機密研究に従事していたと主張した。
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フランス、サハラからの砂嵐で60年前の核実験の残留セシウム137が国内に降り落ちる(2021/03/01)
2月上旬、フランスの一部地域がサハラ砂漠からの砂嵐に見舞われた。その後、フランス東部にあるジュラ県の土壌を調べたところ、セシウム137の痕跡が発見された。この放射性同位体は、1960年代にフランスで行われた核実験の時に放出したものの残りだと見られている。
仏メディア
『フランス 3』によると、2月6日、アルジェリア南部のサハラ砂漠の砂が風で持ち上げられ、フランス南部や東部まで飛ばされた。フランス南部のピレネー山脈だけでなく、東部のジュラ山脈も雪と空が黄土色に染まった。この珍しい現象はSNS上で多く共有されフランス国内で話題を集めた。
しかし、その後ジュラ県の土壌を調べたところ、60年以上前にフランスがサハラ砂漠で行った核実験の残留粒子、セシウム137が混ざっていることが確認された。...
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仏メディア
『フランス 3』によると、2月6日、アルジェリア南部のサハラ砂漠の砂が風で持ち上げられ、フランス南部や東部まで飛ばされた。フランス南部のピレネー山脈だけでなく、東部のジュラ山脈も雪と空が黄土色に染まった。この珍しい現象はSNS上で多く共有されフランス国内で話題を集めた。
しかし、その後ジュラ県の土壌を調べたところ、60年以上前にフランスがサハラ砂漠で行った核実験の残留粒子、セシウム137が混ざっていることが確認された。フランス放射能測定NGO「ACRO」は、サハラの砂には「自然界には存在しない、核爆発に伴う核分裂に由来する人工放射性元素」が、サハラから遠く離れたフランスまで降ってきたと説明している。
しかし、砂嵐が吹いた地域では、1km2あたり8万ベクレルのセシウム137が降ったことが確認されており、ACROは人間の健康に対して危険な数値ではないとしている。
仏ラジオ放送局『フランス アンフォ』によると、アルジェリア南部のレガネの町の近くで行われたフランスの核実験と、サハラからの砂嵐に含まれるセシウム137の存在は、明確な相関関係が確認されているという。
フランスは1960年2月13日に、サハラ砂漠で「ジェルボアーズ・ブルー」と呼ばれる最初の核実験を行っており、その威力は70キロトンと推定されている。広島原爆の3~4倍の威力である。
フランスは1960年から1966年にかけて、当時まだフランス領であったアルジェリアで、計57回の地上及び地下核実験を行った。1962年にエビアン協定が調印されると、フランスは1967年7月にサハラでの実験を最後に、アルジェリアでの実験を終了させることを約束した。しかしフランスは、南太平洋のフランス領ポリネシアで核実験を継続し、それは1995年まで続いた。
フランスのケアン大学の放射線防護の専門家であり、ACRO科学顧問も務めているピエール・バルベ氏は、アルジェリア南部のサハラ砂漠では、「住民は日常的にセシウム137の痕跡とともに生活しており、一部の土地は今もひどく汚染されている。当時どれほど放射能汚染がひどかったのか想像できるはずである。」と語っている。
仏地方紙『ウエストフランス』によると、アルジェリア軍の高官も2月に、フランスは「歴史的責任を負い」、核実験場を「除染」しなければならないと訴え、フランス政府が「核の遺構の位置を明らかにした地図の交付を拒否し続けている」と批判した。
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